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株式会社 在る森のはなし
メンバー紹介
代表取締役 木暮 咲季
代表取締役 金子 ひとみ
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前橋市出身。
高山村移住定住コーディネーター。
2015年高山村にある祖父の家をリノベーションし、 家族で雑貨店兼ギャラリー「カエルトープ」を立ち上げる。
地球に生きる全ての生き物が幸せに 生きる世界とは、どんな光景なのか?
という、自身が抱えてきたその疑問に対する 答えを実現するために、 2020年高山村の耕作放置地を2000坪購入し、 開拓をスタートする。これが現在の「在る森のはなし」につながる。
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鎌倉市出身。
教育系出版会社 編集者。
2018年高山村にて木暮咲季と出会い、 人生のサポーターとして伴走してきた。 人が幸せに生きるためには、いかにして生きるべきか、 という問いに対して、生来から持ち合わせる 「どこまでも広く・永く展望する視野」を 活かして論理を構築し、 「在る森のはなし」では主に、 全ての命が幸せに生きる世界を実現するための 「生き方や在り方」「才能の活かし方」の 指導、コーディネートを行う。

代表取締役 木暮 咲季

 

ーーー貴方にとって、在る森とは何ですか?

”美しい景色を見たい” そう思って逃げ込んだのは人間のいない世界でした。 感情がない自然の中にいれば楽。人間なんていなくなればいい。 深く人と関わることを無意識に避けて生きてきました。 でも待って。美しい景色って何?と立ち止まった時 それは全ての命が輝く景色でした。 世界中の人間、自然、動植物、全ての命が認め合い助け合い幸せに生きている様子です。 私が生きている間、世界中でその景色を見ることはできないかもしれません。 でも、本気でその世界を作ろうと生きている人たちがここにいる。 そうやって子どもたちに認め合い助け合う在り方、生きる知恵を受け継いで行った先、 100年後を生きる人はその景色を見ることができるはずです。 そう思わせてくれたのがこの森です。 ーーーもう、折れることのない願い。それは仲間がいるからできること 「そんなの綺麗事、この世界は汚い人間ばっかりだもん。そんなの無理だよ」 と、何度も仕舞い込んだ願いでしたが、本気でその未来へ向かい始めた時、 やるべきことはまず自分と向き合うことでした。 何も考えてないやつらだと人を馬鹿にし、 悪いのはあいつだと人のせいにして生きてきた。 でも孤独になるのは寂しい、人から認められたい、居場所が欲しい...。 何を隠そう、私こそ、本当の助け合いなんか1度もしたことがなかったのです。 実は自分こそが愚かな人間だったと気づいてしまってから、 嫌いな自分とたくさん出会いました。 その状態から自分の足で歩くことができるようになるまで、 たくさんの仲間の力を借りました。 自律できてようやく、人のために生きることって どういうことなのかを知りました。 そして今、1人ではすぐに折れてしまった願いも、 仲間たちのおかげで声に出すことができます。 ーーー人は愛するために生まれてきたのだから 人が生きるために、土、水、空気、風、太陽、火、さまざまな物質が必要です。 そしてそれらを使い幸せに生きていくためには人と人が助け合って生きていくこと、 それらの物質を分かち合い、守る仲間(動植物菌類)と共に生きる必要があります。 しかし、人は感情をもたされた生き物です。 自分の損得、自己保身、嫉妬、妬み...感情によって目的を忘れ、 助け合うどころか身近な人とですら助け合うことができません。 本当は愛するためにもたされたものなのに、 感情に邪魔をされてしまっているのです。 シンプルでいて大きな矛盾。これって多分だけど 人間の1番大きな課題だと思うのです。 ”世界中の人間、動植物菌類、全ての命が認め合い助け合い幸せに生きること” 私は、この地球の1番シンプルなミッションを実現するために 人が自己や他者と向き合い、手をつなぎ合う関係性を土台とした会社 (大きな家族)を作り守ります。 家族全員が自分の能力を最大限に輝き幸せに生きた先に、 世界中でその景色を見ることができる日が来るはずです。

代表取締役 金子 ひとみ

 

ーーー貴方にとって、幸せって何ですか?

鳥のさえずりを聞きながら、美味しいコーヒーを飲むこと ろうそくの炎を見つめて、自分の呼吸に集中すること 植物たちの生きる様子を眺めて、そっと心の中で話しかけること 誰かを思いやり、誰かのために自分にできることをすること 誰かを癒やし、幸せな気持ちにさせること 多くの人が自分の姿や人生を取り戻し、光輝く姿を眺めること その姿をもって、新しい人生を歩み出す背中を見送ること 人と人とが互いに愛し合い、協力し合う場面を采配して設計し、 その様子をそっと眺めること 大事な人たちみんなが、「幸せだ」と微笑む世界を眺めて その世界を背中に、「ああ、よかった」とその場をそっと立ち去ること。 ーーーもって生まれてた命を使って、全力で明るい未来を照らし出すこと 自分が最初に進路、就職先を選んだときに選択した世界は 「教育の世界」(今も、所属する2つの場所は教育の世界)です。 なぜその世界を選んだのか?と聞かれたら、 みんなが微笑んで幸せそうに暮らせる世界を創る設計図が 実はこっそりと私の中に存在していたことに気づいたから。 人が苦しみから脱し、幸せに生きていける方法が勝手に頭の中に沸いてくる。 まだ実現されていない、その人の最も美しい姿、生き生きと生きる姿が 何故か最初から観ることができる。 だからこそ、その設計図と観る目を独り占めすることなく、 また私の頭の中だけの空想の物語にしないよう、 この設計図を元に世界を創り直すために自分の命を使うこと。 どこまでもわかりやすく、その設計図と観る目を元に 多くの人を教えて育て、導き、 美しい世界の創造に、自分なりに楽しみながら参加することが、 自分の命そのものだと思ったから。 と応えます。 私が観ることができる、全ての命が幸せに生きる美しい世界の物語は、 決して実在しない空想の物語ではなく、「この世に本当に在る」物語であり まるで「物語」のように語られる「現実の世界のはなし」。 それがこの「在る森のはなし」という物語です。 ここに生きる仲間たちが次々と目を覚まし、 生き生きと息を吹き返すように生きていく「物語」を見て 多くの人達が「私も!」と手を挙げて 自分の本当の姿を取り戻して生きる人生を選んでいただけたらと思います。 どうかみんなの幸せと微笑みが、絶え間なく続きますように! そのために、私はよく観て、寄り添い、教え育て続けます。 人として生きる上で、大事なことを。 私は、人間のもつ「みんなが笑う美しい世界とは、一体どういうものなのか?」 という問いの答えを、この森に、世界に、創造します。

木暮 隆

 

ーーー貴方にとって、愛とは何ですか?

一般的に愛には様々な形があると思います。 親子の愛、家族の愛、パートナーとの愛、友情…どれも大事な愛の形です。 私は在る森に来るまではそういう愛を意識してきたことはありませんでした。 と言うより愛と言う言葉を口にするのは 恥ずかしいとすら思っていたのかも知れません。 そんな中で、私は在る森で1人の女性と出会いました。 その人は初対面の私にこう言いました。 「私はこの森の素晴らしさを世界中の人達に知ってもらいたいんだ」と。 その言葉が真っ直ぐですごく輝いていて、それ以来、私は森に通う様になりました。 その人を笑顔にするために… そうやって私以外にも様々な理由で仲間が集まり、在る森を作っています。 私利私欲はありません。 私も含めて、みんなそれぞれが出来ないながらも手を取り合って、 助け合いながら、少しずつ少しずつ成長しています。 1人の笑顔を見たかった自分が、今は、 みんなが笑顔で幸せになるために自分は何が出来るのか? それを叶えられる自分であるために成長していきたいと思っています。 これが私が今現在も体験している新しい愛の形です。 この小さな小さな愛の形が、在る森を飛び越え、色々な場所で、 人々が相手を思いやり、自然を思いやり、動植物を思いやり、 みんなで助け合うことが出来る世界を築くことが出来れば、 それって素晴らしいことだと思いませんか? 私達は在る森に集う全ての人々の幸せを願っています。 ーーー愛というものの定義が変わり、「愛する」を実践する世界が始まる 今までは「愛する」というものは、 「好きな人との恋愛」に存在するもので、 表面的には愛する人と手を取り合って生きていく、 と言いながらその奥には、 自分が今までやってきたことを否定されたくない自分、 何だか分からないプライドを持った自分、 そんな自分をそのまま愛してくれ、といったものが存在していました。 それももちろん愛の形なのかも知れませんが、 在る森にもう一つ愛の形が在るとすれば、 一緒に同じ方向を向いている仲間の存在そのものが愛と言う形なのかも知れません。 それは単純にお互いが助け合いながら同じ夢に向かって生きていく、 と言う側面もあれば、一方では相手を信じて待つ、 相手が成長するために自分がその人のために何をしてあげられるかを 全力でやり遂げるという側面もあると思っています。 相手が困ってパニックを起こした時、側に寄り添って大変だったねと 慰めることだけが本当の愛では無いと言うことです。 自分を律して自分のスキルを高めて成長させることこそ、 本当の愛を相手のために捧げることができるのだと言うことを、 在る森の仲間達が教えてくれました。   そんな新しい愛の形をその存在を持って示していきます!

西山 大樹

 

ーーー人が生きる喜びとは、どのようなものでしょうか?

大切な人の笑顔を見ること。 目の前に広がる新緑の風景に、心動かされること。 都市の煌めく光に、美しさを感じること。 食卓を囲んでいる人と一緒に「美味しいね」と笑えること。 友人からもらったアロマを焚いて「いい香りだな」とほっと一息つけること。 そんな日常のちょっとした瞬間の小さな喜び。 そして、目の前の人のためにできることを考え行動した先に その人の溢れんばかりの最高の笑顔が生まれた時。 仲間とつくった商品を売るために走り回る。 目の前の人の心に抱えたもの、苦しい気持ちを抱えている人が 少しでも楽に生きられるように、自分の恥も捨てて実体験を熱く話す。 その後に見た、目の前の人の笑顔は光っていました。 この人のために頑張ってよかった。生きててよかったと思える。 人の喜びは 目の前に在る美しさに気づくこと そして、誰かのために死力を尽くした先に生まれる笑顔を見ることであると思います。 ーーー人は生きる喜びを忘れてしまう生き物だからこそ、大事にしたい 私達は生きる喜びを忘れると 誰かを傷つけたくなる。自分のことばかり考える。 他の人の指摘を受け入れられなくなる。 この世は、とんでもなく醜い世界に見える。 でも、それは自分の濁った目から見える世界。 世界は本当は美しい。 色とりどりの景色、おいしいご飯、いい香り、楽しい歌があって とっても素敵な人がいる。 暗闇の中にいる人に、ただそれを伝えたい。 どんなにひどいことをする人でも、 その人の中にある小さな優しさ、強さがあるはず。 だから私は、その人と一緒に世界を生き抜きます。 その人が自分の足で立って、 「楽しいね。美味しいね。あの時は大変だったけどよかった。 だって世界はこんなに美しい。」 と言えるその日まで。

藤木 絢

 

ーーー貴方の命は、何をするためにあったのでしょうか?

愛する家族、その輝く命を支えるため。 私の中での家族の定義は、 この在る森のはなしのメンバーと出会ったことで 『同じ家に住み生活を共にする、血の繋がりのある者たち』から 『相手の本当の幸せを願い、同じ目的のために自らの命を使い生きる仲間たち』 へと変化しました。 この家族の輪は、私たちの在り方や会社の事業内容を通して、 少しずつ広がっています。 そして私たちの一部に触れた誰かが、未来の家族です。 家族とは、この地球に生きる全ての命のこと。 自分がこの地球に生まれてきた意味を思い出し、 全ての命が支え合い微笑み合う幸せな光景をつくる、 その道を支えていくため。 その幸せな光景を未来に残すため。 私の命はそのために存在しています。 ーーー家族を増やすために、私達にできること。それは手を差し伸べる愛と勇気 以前の私は「この世界には私を理解してくれる人なんていない。 みんな消えてしまえばいいのに」と、 洞窟のような真っ暗闇に閉じこもって周りを恨んで生きていました。 ある時この森の仲間たちと出会ったことをきっかけに、 自分と向き合い、相手と向き合う人生が始まります。 過去や今の自分を振り返る中で、人の価値を雑に扱い、見下し、 自分さえよければ良いと思って生きている自分の愚かさを嫌というほど知りました。 そんな姿を晒した私に対して、この森の仲間たちは 『どんなあなたでも愛しているけど、その姿はあなたの本当の姿ではない。 このまま生きた先にあなたの思い描く未来はない。』と 愛を持って伝え続けてくれました。 そして私自身が見えていない、本来の私の輝く姿を信じ続けて その姿に戻れるよう全力でサポートしてくれています。 この森の仲間と本音で向き合い、共に生きる時間を通して、 私の中に『この大切な家族の輝く命を支えたい、人生をかけて助けたい人たちがいる』 という願いがあることを思い出させてくれました。 今も真っ暗な洞窟に閉じこもり、 この世界が嫌いだと恨み、嘆いている人がいたら。 その人が大切な家族を見つけられるよう、 この世界に生まれたことを幸せだと笑えるよう、 愛を持って寄り添い続けます。 その道を邪魔するものを見抜き、 その人が本当の自分を生きられるよう、共に歩きます。 共に生き、共に成長し続けます。

渡辺 志保

 

ーーー夢を叶えるために、必要なことは何でしょうか?

そもそも、自分の本当の「夢」に気づいていて、 そこに向けてまっすぐに努力している人って、 どれくらいいるのでしょうか。 私は、自分の本当の夢に気づいてからも、その夢を疑ってみたり、 「私にはできない!」と投げ出してみたり、 私の中に確かにあるものを見ようとせずにいました。 誰かと自分を比べては落ち込んだり、自分の力量(役割)以上のことをして潰れたり… 「自分を生きたい」と言いながら 「自分を生きるための正しい努力」を「ただがむしゃらに」 することから逃げ回っていました。 幼少から、大人になった今に至るまで 「助けてほしい」 と叫ぶ小さな女の子を心の中に抱えたまま。 そんな私に転機が訪れたのは、 ひとみちゃんとの出会い。 高山村でのさきちゃんやふーちゃんとの出会い。 そして今、在る森のはなしに集まったメンバーみんなと 自分自身や相手としっかり向き合えていること。 みんなと関わりながら、物事の捉え方・受け取り方のねじれや 思い込みを解いていくことで、忘れていた本来の自分の姿を 少しずつ思い出していくことができました。 そこから、気づいたことが沢山ありました。 悩んだとき、迷ったときに助けを求めている相手は正しいか? 近くの優しい人に頼りすぎていないか? どこまでも感情に振り回されず、自分のニュートラルを保つことが、 正しい判断をし、道を選ぶための重要なポイントだということ。 失敗しながらも諦めずに、やり方を工夫して何度も挑戦しているうちに、 できることが少しずつ増えていき、それが揺るがない自信へと繋がること。 私が落ち込んだり回復したりを繰り返している間も、 仲間たちはいつも私を応援してくれ、 私が本来の姿を取り戻すことをいつも信じてくれていました。 本当に、感謝しかないです。 ーーー優しさを胸に、自分を律する強さをもって誰かのために自分を成長させる 「夢を叶えるために必要なこと」は、 自分の人生に責任を持つ。 「誰かにこう言われたから」ではなく。 自分が決めた道ならば、その道を自分の足で歩くために必要なものは 自分の頭で考え、調べ、分析し、計算し、準備する。 そこまでして、視野の欠けがないか初めて他者に相談ができる。 パニックを起こして思考停止し、助けを求める(もしくは引きこもる)のは、 もう終わりにしよう。 人と生きる喜びを知る。 誰かと何かを分かち合う。 楽しい時間、会話、食事、仕事… 人が増えれば増えるほど、世界が広がり豊かになる。 どこまでも自分自身と向き合い、自分を律する。 とことん向き合った先に、自分を守る(愛するではなく愛してほしい)ことが どれほど愚かで誰の幸せにも繋がらないものだったか、わかる。 そして「自分」ではなく「みんな」のためにという気持ちが一番の原動力になり、 その意識を持った姿が本当の私の姿だったということに気づけたことは 大きな変化をもたらしてくれました。 そうやって世界中の人が本来の姿でみんなと生きる意識を持てたら、 一人として取りこぼすことなくみんなが幸せな未来に 繋がっていくと私は信じています。 息子(2歳)が大人になったときに、 しっかりと本来の姿で生きられる人間で在れるように 私は私自身が成長することを絶対にやめません。 転んでも立ち上がり、前を向き歩き続けます。 その姿を見せることが、 息子も含めこれからを生きる子供達のためになると 知っているからです。

渡辺 聖光

ーーー夢を叶えるために、必要なことは何でしょうか?

『変化を恐れず、立ち向う強さと勇気』 心の中にあった夢や希望。 私の本当の夢はいつしか、奥底の方にしまい込まれていました。 自分のスキルの無さに絶望して頑張ることをやめてしまったり、 手に届きそうなものに書き換えてしまったり。 世に蔓延る不安や、世界中の海岸の砂粒の数よりはるかに多い情報から 正解の様なものを探しにいったり。 そうしてひとりの世界に閉じこもっていた私は、広い視野を持つこともなく、 自分にとって都合の良く、心地よいだけの居場所に固執してしまい、 正しいと思う道をただなんとなく歩みだしていました。 いつの間にか、本当の夢や希望を心のどこかに置いて・・・ そんなさなかのある日、勇気を持って飛び込んだ先に、 後の在る森のはなしのメンバーとの出会いがありました。 環境を変える必要性をどこかで感じていたのかもしれません。 そこでは、自分の恐れや弱さを理由にそれまで無意識ながら避けてきた、 自分と向き合い、人と対話すること、そして本当の愛の奥深さに触れました。 自分自身の内に存在していたけれどなかったことにしていた、 本当の夢を次第に見つけていきました。 その夢は、   「仲間と共に生きること」   「本当の意味で愛すること」   「一人ひとりが輝く世界を実現すること」 でした。 『不要なこだわりやプライドを捨て、みんなの笑顔を大切にすること』 それらの夢は、ひとりの世界にいる状態では実現することはおろか 探し出すことすら困難でした。 仲間の存在、大切な人の存在なくしては見出すことは不可能でした。 大切な人たちと出会い、本当の夢を見つけたからといっても、 それはそう簡単に手に入るものではありません。 その夢に近づくためには、 それを阻んでいる心のブロックや、今までの自分を形成してきたもの、 周囲に甘えている自分、自己正当化しようとしている自分、 逃げようとしている自分、自己都合だけで完結しようとしている自分、 などを見つけては冷静にそれを見つめ、「なぜ」を分析し、 それらの不要なものを捨てていくこと。 その歩みを止めずにいること。 小さなことからでいいから、自分のスキルを高めること。 冷静で客観的な眼を持った人、周囲の意見を素直に聴くこと。 すべての人への配慮を忘れないこと。 私自身、今もその学びの途中ではありますが、 そのように自分を成長させることで 私から相手に差し出せるものが増えていき、調和が生まれ、 みんなの笑顔に繋がっていくと信じています。 「かけがえのない人たちの美しいいのちが輝き、にっこりとほほえんでいる」 そんな未来を想像しながら。 ーーー1人じゃないから歩ける道があり、その道は喜びであると知る 『もし夢を実現したいと願うならば』 山頂を目指して急な上り坂をひとりで登ろうとすれば、どこかで引き返したくもなります。 道を間違えていることにずっと気づかないままかもしれません。 でも、緩やかな上り坂であれば、人は歩み続けることができます。 そこに、共に生きることを自ら決心し合った仲間がそばににいるとしたら、 今歩いている道とは違う道があること、本当の道ではなかったことにも 気づかせてくれるかもしれません。 単純に歩くということが楽しくなってきます。 諦めることもないでしょう。 たとえその道で誰かがつまずいたとしても、お互いに支え合いながら、 時にはそれさえも笑い合って、また歩み始めることができます。 しかも、到達したときの喜びはどれほどのものになるのだろうと考えたら もうそうするしかありません。 私も、その一員として傍らで歩んでいきます。

丸山 えり

 

ーーーこの世で最も美しい光とは、何でしょうか?

「己の軸をととのえて 己を存分に愛し 生まれてきた意味を思い出し 後世のために 仲間と力を合わせて 美しい世界を作る 命の光」 いただいた命を「自分を超えて」全うする、 「生きる」という光。 決して歯を食いしばるのではなく。 ふんわり 軽やかに 微笑みながら。 全てのいのちが生きていることを思い切り喜び愉しみ 我欲ではない意思で思い切り命を全うしている完全調和の世界 どこまでも支え合い 個が消えることがなく 全体が完璧な調和で成り立つ世界 根っこから、肚の奥底から、突き上げる、 生きる、生きたいと希う力。 健やかで真っ直ぐな呼吸。 どこまでも全体の幸せを願う心で 自分の才能を存分に発揮する命。 これらが、この世で最も美しい光だと思います。 ーーー自分を含めた全ての存在を祝福することで、 「自分」は始まる 私は、幼い頃からずっとずっと「叱られないように・嫌われないように」にすることを 前提に生きてきました。世界が怖くて仕方がなかった。いつも責められているような気がして安心できませんでした。 そんな風に生きてきたので、「本当の意味で」人と繋がることができませんでした。 まっさらな状態で、人の話を聞くことも、物事を考えることも、仕事をすることも、笑い合うことも、分かち合うことも、自分や人と関わること全てにおいて、怖くて怖くて仕方ないので、自分とも、人とも、繋がることができませんでした。 とにかく「自分を安全な場所に居させるため」を初期衝動として全てのことを選択してきました。 相手から好かれたら、認めてもらえたら、自分の身は安全である。 相手が楽しそうに笑ってくれたら、自分の身は安全である。 早く相手の要望に答えられたら、自分の身は安全である。 そんな風に常に「自分の身の危険を回避する」が前提にあって、行ってきたことばかりでした。 無意識にそんなふうに仕事をして、恋人や家族や友人に接して。 仕事もやることも全て、こういう内容だったら人様に認めてもらえ称賛してもらえるのではないかと選んであざとく、人から好かれる技を磨いてきました。 そんな理由で日々生きているので、自分に自信がつくわけもなく、実力もつくわけもなく、好きでやっているのかももはやわからず 考える力もつくわけもなく(狡さはどんどん身につきました)一人で生きていく力がないので、気がつくと誰かを崇め、縋り、依存して生きることばかり選んできました。 もちろんこれらは全て、私の無意識下のことです。 だから、自分が狡い、自分があざとい、自分が計算高いことなど 自分の意識の上に「本当の意味で」現れてくることはついぞありませんでした。 むしろ、自分は良い人間だ。博愛主義者だ。と意識していました。 しかし、無意識下でそんな風に生きてきたので、人生を進めるにつれやること、なすことチグハグになっていました。 私は、良い人間のはずなのに なぜ、こんなにもいつも色々な物事にぶつかるのだろう? なぜ、こんなにもいつも落ち着かないのだろう? どうして、いつも人を怒らせてしまうのだろう? どうして、こんなにも生きていくのが大変なのだろう? 相手のことを好きだと思っていたはずなのに やりたいと思っていることなはずなのに なぜ身体が動かないのだろう? なぜ何も考えられないのだろう? 自分を知る、ということを深めているのにも関わらず、なぜなのだろう。どこまで深めたらいいのだろう? という壁にぶつかりました。 そんな矢先、在る森のメンバーと仕事をすることになりました。 在る森のメンバーは、生活を通して、仕事を通して、自分の「在り方」「生き方」を常に観て、考えて、話し合うという関係を築いている仲間です。 一人で深めるのではなく、 仲間同士で深めあうので 「ここが問題点」と指摘し合うことや、知ることが、一人で行うことよりも、わかりやすく、ポジティブに行うことができます。 在る森のメンバーは、「地球上の全てのいのちが幸せに生きるために」仕事をしていました。 私は、アサイン当初、「私ももちろんそれを信条にしている」と感じていました。 しかし、仕事を進めるにつれて、まるきり違うことを知りました。 そうです。私は、「自分の心地よさのために」「自分の安全のために」を優先して、仕事をしていたのです。自分が自分の安全のためを優先して生きてきたことを知りました。 メンバーから指摘をされて、はじめてそれが炙り出され、知ったのです。 なんとなく、気がついてはいた気がします。それが無意識の中のことだったのだと思います。気持ち悪さがずっとあった。その尻尾をメンバーに思い切り掴まれて、意識の上にのぼらせ、まざまざと観ることになりました。 一人で学びを深めていても「ここ」というところで「恐怖」が湧いてきてしまい、目の前の事象に対し、目を瞑ったまま、突き進んで生きていました。 だからずっと治らなかった。頭で理解していても、本当の意味で直視することができなかったのです。 森の仲間は、「絶対に手を離さないから」と約束してくれ、私に、とにかくここは安全である、ということをわからせた上で、私が恐怖由来で行動していることを教えてくれました。その瞬間を捕まえて、一緒に観てくれました。 その上で、私は一人の学びの上で「気づいた」ことを、目を見開いて、「体感」することになります。 そして今、生きること=仕事や、遊び、コミュニケーション全てにおいて「相手のために」が先に来ると、自分の行動が全て変わる。ということを知りました。 相手のために生きる。そのために手を尽くす。そのために自分の力をいかんなく発揮する。 そのために常に自分の良い状態をキープする。身体も、心も。 のびのびと、心地よく、幸せに生きて、その上で、心から、相手と繋がり、心から、笑う。 同時に、「自分が心動かすものは何か」「自分が好きだと思うものは何か」 自分がついついやってしまう楽しいことに目を向けて 愉しむ。 そしてしっかり自分を幸せにする。 それらをあたため、力を伸ばし、地球のために役に立てようと思います。 まだまだ、過去の自分の習慣、悪癖で、怖さが先に出てパニックになりながら行動することもありますが、「大切な仲間のために」「地球上のいのちのために」 怖さを勇気に変えて、自分の「好き」を知り、深め、進む強さを持って生きていくことを決意しました。 「本当は、私は何をしに、この地球に生まれてきたのか」 本当は、全て丸裸の、綺麗な綺麗な一つの魂のはずなんだ。 恐怖にこわばってまだまだその形が見えてこない。 それでも諦めることなく、 本来の自分の真っ直ぐな魂で生きる。 そうすると、きっとその意味がわかり、観えるんだろう。 この世界にいらない命は一つたりとして、ない。全てがこの地球に必要ないのち。 全ての存在を祝福し、愛し、在ることをただ微笑むだけ。そこからようやく 自分がはじまるのだろう。

飯塚 和子

 

ーーー貴方にとって、「学ぶ」とはどういうことですか?

私にとって学ぶとは 「共に生きるということ」を知ること 「私のことは、カエルトープのことは、どうでもいいんでしょ?」 「カエルトープのこともあれこれやって欲しいのに後回しになってる」 娘の咲季が在る森のはなしをスタートさせてから、 今までにない感情が生まれていました。 夫の武ちゃんと咲季の頭の中は森一色。会話も森の話ばかり。 咲季に対しては、なぜ血の繋がってない人を私より大切にするの? 私は母親なのに、もっと話したいのに…。寂しかったのだと思います。 森のみんなに対しても、仲良し小好し他の人を寄せ付けない宗教団体のようで 怪しいよね。本当の家族でもないのになぜ「家族」っていうの?と 信頼していませんでした。 その頃の私は恥ずかしながら、自分のことを相手を思いやることができる 優しい人であると思っていました。 それは大きな勘違い、本当はただ自分を守るため、嫌われないように、 いい人ねって思われたかっただけ。 真実を言ってしまったら嫌われてしまうのではないかと恐れていました。 本当にその人が幸せであって欲しいと願うのであれば そんな風に思うはずがないのに。 そう、私は自分を守りたかっただけ。 自分(家族)さえよければいい、 身近な家族の本来生きたい姿など考えたことがなく、 相手に私のモノサシを当てて、それに合っていないと否定する 自己中心的な私だったのです。 森のみんなと過ごすうちに、 「このままでは、カエルトープは続けられない、幸せになれない」 「本来の私の姿で生きていきたい」 と思う自分に気づき始めました。 みんなと一緒に生きていきたい!新しい扉を開けて成長したい! と決心したもののどっと波のように押し寄せてくる邪。 苦しくなって前のままの方がよかったんじゃない? もう無理、だって大変だもの…。 とにかく不安で仕方がなかったのです。 何度も何度も引き戻されそうになりました。 正直、今でも時折くじけそうになりますが、 あちこちから聞こえる「頑張れ!」の声に励まされ、 一歩一歩カメの歩みで前に進んでいる進行形の私です。 自信のなさから逃げ回っていたけれど、 これからは私も愛すべき人たちの為に 私から何か差し出すことができる自分に成長できるよう学んでいきます。 本当にその人が幸せになるとはどういうことなのか? 来てくださったお客さま、お店に関わってくださっている出店者さんや作家さん、 全ての人の笑顔を見られるように、カエルトープを育てていきます。 ーーー人と共に生きることで「私は本当の私に戻れる」 「人は成長し変われる」 森のみんなが、どんどん輝いて美しくなって行く様をこの数年見てきました。 幼いころから私の前で本気で泣いたり笑ったりしなかった咲季が、 きれいになったこと(親ばか?)、心をちゃんと見せてくれるようになったこと、 優しさを素直に表現できるようになったこと。 咲季の大きな変化を近くで見ることで、 きっと私の中も変化していったのだと思います。 苦手だったパソコンに挑戦したこと、 似合わないと決めつけていた服が思いがけず似合っていたこと。 今まで好きと思っていたものに違和感を感じたり。不思議ですね。 「自分の殻を脱ぎ捨てると世界の見え方が変わる」 あちこちに落ちている「楽しい」をいっぱい見つけられる人生を、 出会った全ての人たちと共に歩んでいきたいです。 歳を重ね体力のなさを痛感するこの頃ですが、「みんなと共に生きる」ことで 私もまだ幾つかの山を登れそうです。 山を登ったその姿。 その人の本当の幸せを願える、愛深い人になりたい。 嫉妬、妬み、怒り…様々な邪が押し寄せてきても、柔らかく凛と どこまでも相手の幸せを願う人で私は在りたい。

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